宵のつれづれシリーズは、仕事帰りの電車の中で読めるくらいの軽い記事を書きたいなということではじめたシリーズです。今回は第62回、恐怖の正体です。
恐怖の正体
前回は、「ESIの袋小路」というタイトルで書きました。
各タイプにおいて、主導する機能と脆弱な機能の優先順位は決まっているという話(もちろん主導>脆弱)。ESIなら、自分が重要視する道徳的ポリシーよりも「(あるかどうかわからない)チャンス」を優先することはしません(内向倫理>外向直観)。
この優先順位は、周りがなんと言おうが覆ることはないんです。それで痛い目を見ることがあっても、です。
で、前回ちらと書いたのですが、なぜそんなにも優先順位を頑なに守りたがるのか。それは、怖いから。
怖いといえば、脆弱な機能は失敗しやすいから怖いんですよーというような説明をよくしてきました。
でもそれ間違いではないけど、ガバいというか…、別に失敗自体が怖いわけではないんじゃないかな…と思った、というのが今日のテーマ。
たとえば、ESIはチャンスに賭けたがりませんでした(脆弱な機能×外向直観)。でもそれは、チャンスを掴もうとして失敗すること自体が怖いから…というわけではないかもしれないよね、ということ。
なぜって、脆弱な機能が脆弱なことは、その人にとってはいつものことだから。ESIにとって、チャンスに賭けないことも、チャンスに恵まれない(ように思う)ことも、まぁ、いつものこと。だから家で1人のとき、特に困っていないときには、そんな気にしないはずです。だっていつものことだから。
怖さが出てくるのは、失敗している姿を誰かに見られているとき。それも「チャンスを物にできない人」と、否定的なジャッジを下されるとき。
そしてさらに、そのジャッジのせいで、自分が常々「こうはなってほしくない」と思っている事態に陥りかねないとき。
ESIにとって恐ろしい事態は、自分のしたい仕事ができなくなってしまうような事態です。
なんでそう言い切るかというと、クアドラ・コンプレックスが関係しています。
ESIに限らず、ガンマ・クアドラのタイプは、ガンマ・クアドラ・コンプレックス、「手錠コンプレックス(связанных рук)」を持ちます。
ちょー簡単に言うと、手錠=自由に動けないことへの恐怖。もっと具体的には、希望の職につけない恐怖。
逆に言えば、脆弱な機能については、すぐに拒絶を示してしまいがちですが、自分のクアドラ・コンプレックスを呼び覚まさない状況なら、意外と頑張れることもあるということ。
ESIも、自分の仕事を失わないという保証(安心感)があれば、提案されたチャンスにも「まぁやってみるか…」と前向きになることができるというわけです。
今日は以上!