宵のつれづれシリーズ、仕事帰りの電車の中で読めるくらいの軽い記事、というコンセプトではじめたシリーズです。今回は第80回、自分の問題です。
自分の問題
前回↓
なぜ選手は監督の行動を「自分のために向けられた善意」だと思ってしまったんだろう?という疑問から、(選手の)脆弱な機能が自らの双対の証明する機能を「理想」と考え、その「理想」を監督の主導する機能に投影してしまうからでェ~、という話を書きました。
ここでもう1つ補足しておくべき大事なことがありますので、今日はその話。
その補足とは、主導する機能と脆弱な機能はどちらも、個人志向の機能だということです。
かみ砕いて説明します。モデルA上半分(精神ブロック)の機能は、「自分のため」の機能です。これは、「みんなのため」に動きやすいモデルA下半分(生命ブロック)とは対照的です。
そして主導する機能と脆弱な機能は、どちらもモデルA上半分に位置していて、どちらも「自分自身のため」に動くのです。
どういうことかもう少し掘り下げます。
主導する機能は、その人の強みになるような機能ですが、その強みを「みんなのため」に発揮しているとは本人はあまり考えない。本人にとっては、自分の強み=自分のものです。
だから主導する機能は、あくまで「自分のため」に動きます。つまり、自分の幸せのためであり、自分の興味のためであり、自分の目的のためであり、自分の使命のためです。めぐりめぐって誰かのためになることはあります。それでも出発点は、やっぱり「自分のため」です(もちろんそれが悪いと言いたいのではなく、人として普通のことです)。
逆に脆弱な機能は、その人の弱みになっている機能ですが、本人はここでは、自分の弱み=自分のものと考えます。この機能をめぐって何かやらかしても「みんなが悪い」とかはあまり思わない。自分の責任だし、自分の良くないところだし、自分の問題だと考えます(暗示される機能とは対照的です)。
だからこそ脆弱な機能は、誰かに手を差し伸べられると、それを「当然」のこととは決して思いません(これも暗示される機能とは対照的です)。むしろそれを滅多にない「有難い」ことだと受け止めます。
ですが同時に、脆弱な機能への介入は、かなり侵襲的な体験でもあります。
それは、言い換えるなら第三者が自分の問題に踏み込んでくる体験。
たとえるなら、身体のコンプレックス、家庭のいざこざ、過去のトラウマ……のような、人に相談することも憚られてしまうような、デリケートでプライベートな問題。
そういった自分の問題に、第三者が手を差し伸べてくれたとして。その支援が、確かに、自分の問題に救済を与えてくれる「有難い」ものだったとして。
その「有難い」支援の動機が、蓋を開けてみれば、その第三者自身の興味関心や目的だったとしたら?
「助けられている」はずなのに、どことなく「だしにされている」ような気がすることでしょう……。


