ソシオタイプLSIはまたの名をマクシムといいますが、これは旧ソ連の小説家「マクシム・ゴーリキー」からきています。今回は、マクシム・ゴーリキーの生涯や代表作、名言を紹介します。
LSIの別名はマクシム?
LSIは、MBTIのタイプISTPとおおよそ対応するタイプ(※諸説あります)で、Logical-Sensory-Introvert(論理-感覚-内向型)の略です。
くわしくはこちら:
LSIの別名は「マクシム(Максим)」といいます。タイプの性格をイメージしやすいということもあってか、ロシアではよく使われています。
この「マクシム」の名前の由来は、ロシアの小説家マクシム・ゴーリキーМаксим Горький(1868-1936)です。
いかついですね。
社会主義リアリズムの創始者、プロレタリア文学の父などと呼ばれることがあるゴーリキーですが、ゴーリキーが描いたのはズバリ「最底辺のリアル」です。ゴーリキー自身も、極貧を生き延びた人でした。
現在の日本ではマイナーですが、当時はかなり有名な作家で、夏目漱石の小説『坊っちゃん』にもゴーリキーを意識した「ゴルキ」という魚が出てくるほどです。
ちなみにポケモンにもゴーリキーっていうのがいます。これは「剛力」とマクシム・ゴーリキーから来た説があるそうです。
それでは以下より、マクシム・ゴーリキーの生涯、代表作、名言を紹介します。ぜひ、「マクシム・ゴーリキーってここがLSIっぽいなぁ!」なんて考えながら読んでみてください。
自分を信じろ!!
※ひよこちゃんのセリフは(史実をもとにした)フィクションです。
マクシム・ゴーリキーの生涯
ゴーリキーの 「苦い」幼年期~青年期
1868年、マクシム・ゴーリキーは、ロシアのニジニ・ノヴゴロド州で生まれました。今はロシアの都市と言えばモスクワやサンクトペテルブルクを思い浮かべるでしょうが、当時ニジニ・ノヴゴロド州はロシア1の産業都市だったそうで、7月の定期市には数百万人の商人・観光客が押し寄せるほどの賑わいだったようです。
ゴーリキーは、大工の父親の息子で、本が好きな子どもでした。しかし幼いころに両親を失って孤児になり、11歳にしてお金を稼がなければならなくなります。それからの日々はまさに壮絶。
母とは疎遠になり、父を失い、貧しく、さげすまれて、その子(ゴーリキー)は路地から路地へごみを集めては古道具屋に売っていた。学校では「浮浪者」と笑いものにされ、悪口で傷つけられた。子どもたちは彼が「肥だめ臭い」と言い張って、彼の隣に座ることを拒んだ。
クルト・ケルステン(1936)
小学校にもほとんど通うことができなかったそうですが、単なる生活苦だけが原因でないことは明らかでしょう。こうした屈辱的な日々は10年以上続きます。考えただけでも胸が苦しくなりますが、当のゴーリキーも人生に耐えきれなくなり、19歳のときには拳銃自殺をはかっています。祖母が亡くなったことや、ナロードニキというインテリ革命家サークルに入ろうとしたら出自や学歴をバカにされたことなどが引き金をひかせたようです。。
嘘と抑圧ばかりの世界だ。一切の希望もない。
小説家としてのゴーリキー
このようにつらく希望のない状況でも、ゴーリキーは暇を見つけて本を読み続けました。そして次第に、自分でも小説を書くようになり、小説家としてデビューします。
実は「マクシム・ゴーリキー」はそのときつけたペンネームです。ゴーリキーはロシア語で「苦い・つらい」を意味する言葉です。
そして34歳の頃に、代表作である戯曲『どん底』を発表します。この頃にはトルストイとならぶ人気作家になっています。
冒頭でも説明したように、ゴーリキーの作風の特徴は「最底辺のリアル」を描いたところです。自分の「苦い・つらい」経験をもとに、貧困層の人々の暮らしを臨場感たっぷりに描写しています(作品についてはこの後でも紹介をします)。
革命家としてのゴーリキー
ゴーリキーは小説家でしたが、革命家でもありました。
ゴーリキーは、レーニンが率いたボリシェヴィキの党員になります。ボリシェヴィキはのちにソ連になるやつ(雑)で、暴力革命やプロレタリア独裁を掲げる「過激派」ともいわれるやつです。
こうした過激思想によって前々から目をつけられていたゴーリキーは、何度も逮捕を経験します。さらに、科学アカデミーという名高い研究機関の名誉会員に選ばれたときにも、時の皇帝・ニコライ2世に会員を取消されています。
ゴーリキーは革命に非常に熱心に取り組み、第一次世界大戦中は自分のアパートをボリシェヴィキの事務所にするほどでしたが、革命が進むにつれて、ボリシェヴィキに失望し、友人だったレーニンのこともボロカスに叩くようになります。
あいつらダメだわ、もう権力の毒に冒されてる。レーニンなんかただの残酷な詐欺師だ。労働者のこと何も知らないで「自由」とか「人権」とか言ってたわけだ。舐めるな。
晩年のゴーリキー
その後ゴーリキーはイタリアに移住します。「療養」の目的もありましたが、母国の荒れっぷりが嫌になったのもありました。
イタリアから戻ったあとは、悪名高い独裁者スターリンに政治利用されるようになります。ゴーリキーはソ連のお墨付き作家となります。こうしたことは、スターリン自慢の戦闘機に「マクシム・ゴーリキー号」と名付けられたことからもわかります。
それから1936年、68歳でゴーリキーは亡くなります。死因は持病である肺炎の悪化ともいわれていますが、その2年前にゴーリキーの弟も亡くなっていることから、スターリンに「粛清」されたのではないか?とも言われているそうです。
…う~ん、おそロシア!
マクシム・ゴーリキーの代表作
以下ではマクシム・ゴーリキーの代表作を紹介します。
短編集『二十六人の男と一人の女』
『二十六人の男と一人の女』は、日本で一番手に入りやすいゴーリキー作品だと思います。
ゴーリキーの初期・中期の4作品が収録されている短編集です。表題作『二十六人の男と一人の女』のあらすじは、こんな感じ:
薄暗い半地下で来る日も来る日もパンを作り続ける「俺たち」。俺たちの楽しみは、こっそりパンをねだりにくるターニャたんだけ。そんな俺たちのもとへ、ある日いけすかないキザ野郎があらわれた!!俺たちとターニャたんの運命やいかに!?
…異論は認めますが、実際かなり正確じゃないかと思います。
こちらは、ゴーリキーがパン屋で働いていたときの体験が題材になっているようです。全体的に陰鬱で雰囲気ではあるのですが、童話のようにさらさら読めました。
3作目の『チェルカッシ』が、個人的には一番好きですし、ゴーリキーを一躍有名にした作品がこの作品だったそうです。港町の大泥棒チェルカッシと、なりゆきでその相棒になってしまった出稼ぎ農民ガヴリーラの一夜の泥棒仕事を描いています。一緒に真夜中の海を行くシーンは、ドキドキハラハラの連続で一気に読んでしまいました。ラストもいいです。
AmazonだとKindle Unlimitedの対象なので、会員の方は読んでみてはいかがでしょうか?
戯曲『どん底』
『どん底』は、ゴーリキーによる有名な戯曲です。
タイトル通り、社会の「どん底」を描いています。舞台は今で言う「ドヤ」的なとこで、主人公はおらず、多種多様な事情から貧乏になった人たち(泥棒、没落貴族、ギャンブラー、アル中、病人…)が登場します。
この戯曲は当時、「スタニスラフスキー・システム」で有名な演出家・スタニスラフスキーによって上演されるなど一世を風靡しています。
ちなみに日本でも黒澤明監督が日本テイストに映画化していますし、今でも形を変えながら舞台で上演され続けている不朽の名作です。
詩『海燕の歌』
ほかにもゴーリキーは『海燕の歌』という詩を書いています。
プロレタリア革命の到来を予言した詩で、案の定ゴーリキーはこれを発表してすぐに逮捕されます。「詩を書いただけで逮捕!?」と驚く方もいるかもしれませんが(私は驚く)、当時のロシアがそれだけおそロシアだったということをよく表しています。
和訳がWikipediaで読めるので、興味がある方は確認してみてください。
マクシム・ゴーリキーの名言
最後にゴーリキーの名言をいくつか紹介します。
『どん底』から。シンプルなだけにグッときます。「私って才能ないし…」とか「どうせ僕には向いてないんだ…」とか、卑屈になったときほど思い返したい言葉です。
こうはっきり断言されると、背筋が伸びる感じがします。今、自分が何かに燃えていないなら、それは腐っているってこと。指針として、とてもわかりやすいです。なおこの後、「臆病な者や欲深い者は前者を、勇敢な者や気前が良い者は後者を選ぶだろう(※拙訳)」と続きます。臆病さと欲深さは人を腐らせますね。気を付けたいものです。
最後の名言です。キツい皮肉ですが、「どん底」を経験してきたゴーリキーが言うからこそ、胸を打つものがあります。漁ったごみを売ってお金にしたとき、薄暗い半地下で昼夜パンを作り続けたとき、ナロードニキに「下層民の子」とバカにされたとき、本当に屈辱的だっただろうと思います。仕事のことで見下されたとき、あるいは自分が仕事のことで誰かを見下しそうになったとき、この言葉は「からてチョップ」のように効くと思います!