宵のつれづれシリーズは、仕事帰りの電車の中で読めるくらいの軽い記事を書きたいなということではじめたシリーズです。今回は第58回、悪をなさない方法。
悪をなさない方法
前回は、「己の欲せざるところ、人に施すことなかれ」、つまり「自分がされたくないことを人にするな」という道徳のポリシーの話をちょろっとしました。
ESI系統の「裁く倫理」、内向倫理(関係の倫理)の観点では、このポリシーに従ってなされる行動は「善」であり、ポリシーに反する行動、つまり自分されたくないことを人にするのであれば、それは「悪」だという話をしました。
で、今回から「悪」の話をもう少し掘り下げてみたいと思っているんです。
「悪」の具体例を考えてみます。こんな人がいたら、どうでしょう?

私はアイツに見た目をバカにされて嫌だったから、かわいくなった今、アイツの見た目をバカにしてまーす!
自分がされたくないことを人にしていますので、「悪」です。アイツに対する明確な悪意に基づいています。
いまのは言うまでもない例ですが、もっと気をつけるべきは、登場人物が複数いるような場合です。
たとえばこういう場合。

私は子どもの頃貧しくて辛かったの。だから、子どもには絶対貧しい思いをさせたくないし、させてないわ。
ここだけ聞けば、善き母だとみんなが思うことでしょう。
では、同じ人がこう言っていたら?

お仕事は、ブランドの偽物を出品して販売すること。…自分がお客さんの立場だったらって? 絶対買いたくないわよ…。でも子どもを養わなければいけないし、普通のお仕事じゃ全然足りないし…。
これは自分がされたくないことをお客さんにしているわけですから、ポリシー違反、つまり「悪」です。子どもがいようと、悪徳業者であることにかわりはありません。
このように向かう相手が複数いる場合。今回のケースならお客さんと子どもですが、こういう場合、板挟みになりやすい。
そして一方から見れば善だが、他方から見れば悪だ、という状況に陥ることはよくあります。
内向倫理の双対の要素は、外向論理。ビジネスの論理であり、行動の論理。
どんな小さな悪もなさないためには、道徳的な高潔さだけじゃ足りず、それ相応の問題解決能力が必要になってくる。
上の例なら、やはり資金繰りができなかったり、適切なビジネス判断ができなかったりすれば、子どもに貧しい思いをさせず、かつお客さんにも嫌な思いをさせないことは難しくなります。
内向倫理型ほど、それを痛感しているタイプはないかもしれないですね。
つづきます!