宵のつれづれシリーズ、仕事帰りの電車の中で読めるくらいの軽い記事、というコンセプトではじめたシリーズです。今回は第88回、2種類の寛容さ――主導する機能と証明する機能です。
2種類の寛容さ――主導する機能と証明する機能
先日、無事ソシオニクスイベントin東京をやってきました。ご来店いただいた方、ありがとうございました。色々課題を感じつつも、色々な人と喋れて嬉しかったです。
帰りの新幹線ではビールを飲みながらこんな投稿をしました。
すっごい文脈を端折ったのもありまして、「わかる~」という意見もあれば、「いや逆じゃね?」という意見もありました。つまり、
- 証明する機能は主導する機能よりも、相手の弱さに寛容である
- 主導する機能は証明する機能よりも、相手の弱さに寛容である
こういう相いれないA/Bの2つの主張が発生しました。
そしてこれはどちらも成立しうると思います。というのも「相手の弱さに寛容」という言葉がそもそもめちゃ曖昧であり、その言葉の定義次第でどうとでも解釈できてしまうからです。
しかしながら同じ文字列を見ているはずなのに、それでも「Aだと思う」「いやBだと思う」と見解がわかれる。そこには「相手の弱さに寛容」という曖昧な言葉から何を思い浮かべたかの違いが表れているようにも思います。
では、A/Bそれぞれの立場では、一体何を思い浮かべているのでしょうか。
まず反対意見としていただいたAの立場に立ってみると、「相手の弱さに寛容」から思い浮かぶのは「相手の失敗を責めない」態度でしょうか。
確かに証明する機能は、相手の失敗を目の当たりにしたとき、黙って助けようとすることがあります。一方、主導する機能は相手の失敗を手厳しく批判することもあります。なので、「相手の失敗を責めない」を「相手の弱さに寛容」と捉えるなら、たしかに証明する機能のほうが寛容と言えます。
かたやBの立場ではどうでしょう。これは私の立場ですが、この場合「相手の弱さに寛容」から思い浮かぶものは、「相手の未熟さ自体を受け入れる」態度です。
主導する機能は、相手がメチャクチャしていても、「まあ、そういう人もいるよね」と相手の未熟さをその人らしさとして受け入れ、必要によって口を出すことができます。
この意味でいくと、証明する機能は明らかに不寛容です。なぜかというと、証明する機能は相手の未熟さを、当たり前が通用しない「非常事態」と受け取るからです。
イメージするなら、日本の公共空間で真っ裸の人があらわれたような事態でしょうか。この日本では服を着るのは当たり前ですから、もし目の前でそのような人がいたら、まず「ギョッ」とするはずです。
そしてもしその真っ裸の人がたとえば泣いていたり体を小さくして震えていたりすれば、自分か、同じ「当たり前」を共有する誰かが上着を差し出し、説明は二の次でしょう。言うまでもなく非常事態だからです。
逆に、その真っ裸の人がすごく元気そうで堂々と歩いていたとしたら? これもこれで明らかな非常事態です。通報するか、少なくとも近寄らないようにはするでしょう。
いずれにせよ「まあ、真っ裸がいい人もいるよね~」と受け入れることは難しいように、証明する機能は、相手の未熟さを単なる「価値観の違い」として流すことができず、むしろ早急に対応すべきトラブルとして受け取ってしまうわけです。
ちなみに私は昔デートで夜の公園を歩いていたら、正面から真っ裸の若い男が走ってきたことがありました。私たちを見つけるとすぐにUターンして逃げていったのですが、あのときはかなりギョッとしました。まあそういう価値観の人もいるよね~、とはならなかったですね。
